2021-06-14 第204回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第3号
エリツィン大統領、その前のゴルバチョフ大統領、ゴルバチョフさんのときはペレストロイカだったりグラスノスチだったりというような国の中の変化があって、チャンスはまたいつか巡ってくるというふうに思っております。
エリツィン大統領、その前のゴルバチョフ大統領、ゴルバチョフさんのときはペレストロイカだったりグラスノスチだったりというような国の中の変化があって、チャンスはまたいつか巡ってくるというふうに思っております。
これにとどまらず、このときは、後のペレストロイカに結びついていって、東西冷戦の終局、この初めの一歩だったと言っても過言ではないのではないかというふうに思っています。ですから、世界に向けて、その後の大きな歴史の転換点になるようなメッセージの発信の瞬間だったというふうに考えています。 先ほど大島委員からも話が少しありましたが、一九九三年、オスロ合意というのがあったと思います。
ソビエトはペレストロイカで民主化して、ベルリンの壁の崩壊によって東西ドイツが統一をして、あのとき私は学生でしたけれども、本屋さんに行ったら、平積みされている本の題名は大体、もうこれからは右でもない左でもない、中道主義だみたいな本がベストセラーになって平積みされていた時代でした。 けれども、私は信じなかった。何を信じなかったか。ソビエトはロシアになってもソビエトだろうという疑いを捨てませんでした。
その米ソの対立の中で、東西冷戦構造というのが一応終えんをしましたけれども、特にベルリンの壁が崩壊をして、東西ドイツが統一をされて、そして同時に、当時のソビエトというのがペレストロイカという民主化の中でどんどん変化をしていった。
この平和祈念事業特別基金で無理があるということは、先ほど三つの問題を同時に扱うという、同じ土俵で扱うというところに一つはその重大な困難な点があったということは申し上げましたけれども、一九八八年というのは、先ほど申し上げたペレストロイカの始まるまだ前なんですね。
今、死亡者名簿ですが、これが最初はずっと旧ソ連側は我が国には抑留者はいないというふうなことまで主張していたわけですが、一九九一年、ペレストロイカの後、ゴルバチョフの時代になってからあの名簿が届くようになりました。現在まで厚生労働省の方に約四万七千人ほどの名簿が届いているわけですけれども、これもまあ一度に全部ということではなくて少しずつ、八回ぐらいに分かれて届いております。
ソ連、ロシア側から死亡者名簿や情報がもたらされ、一九四五年八月二十三日のスターリンの秘密指令の存在などが分かったのは、ペレストロイカが始まった一九九一年以降のことであります。それまでは、シベリア抑留の本当の理由やそのメカニズムもよく分からなかった。
ソビエトがペレストロイカにゴルバチョフが失敗したと。あのときは企業独立採算制と自己資金調達制というのを、これ機能していないのに結局その中で計画経済に引導を渡してしまったということもございます。
しかし、一九六九年にダマンスキーというか、珍宝島で軍事衝突があって、これは正に両方とも核戦争の危機もあったと言われるぐらい緊迫したわけですが、その後、徐々に関係が少しずつ良くなり出して、そういう中でペレストロイカが進んでロシアになり、そういう中で中ソの東部の国境、これはやれるところから決めていきましょうと、こういうことになって、最終的に先ほど言いました二〇〇四年の十月十四日にプーチンと胡錦濤両首脳の
その後に、シベリア抑留の皆さんにつきましては、労働証明書の問題ですとか、それから実際に、当時のソビエトでございますけれども、ゴルバチョフ政権にかわりましてペレストロイカが始まってから、初めて死亡者の方が三万八千人出られた。最近の統計では、当時のソビエト領にあったその地域では亡くなられた方が九万二千人を超えるというような報告も出ているというふうに伺っております。
ところが、やはり結果的には、ペレストロイカ以降もそれほど大きな変化がないというんで、また高い率に戻ってしまったところがあります。 ただし、ここで、五番目のところにエストニアありますね。エストニアは、かなり自殺予防に関して、スウェーデンと協力して積極的な自殺予防対策をしました。そうしたところ、自殺率が下がったということはあるんですね。 もう一つ、どうしてこれほど違いがあるのかと。
ソ連の場合でも、結局、ペレストロイカ、グラスノスチというようなものがあって、ゴルバチョフ以降になって初めて内部の情報というのは外に出てくるようになったわけでありますから。したがって、今の政権が続いている限り、なかなか難しいのではないかということになってくるわけです。
また、事実、八〇年代、オイルショックを克服した後の日本の経済の成長や技術の発展、それが当時NICSとかNIESとか言われました新興工業地域に伝わり、またASEAN諸国の発展にもつながり、それが中国やさらにインドなどにも影響を及ぼしまして、そうした民主化と市場経済の流れに乗っていかないとだめだということで、中国も改革・開放、そしてソ連もペレストロイカ。いわば冷戦の終結。
だが、ペレストロイカが始まり、冷戦が終わると、これは解決することが必要な問題に変わったのであります。となれば、論理もまた、対決の論理から対話の論理、説得可能な論理に変わらなければなりません。両国間の国交を開いた五六年共同宣言が交渉の基礎に置かれるのは当然であります。
この彼の言うところは一九八〇年代におけるソ連の状況にぴったり当てはまるわけでございまして、ゴルバチョフがペレストロイカの名のもとに改革を進めざるを得なかったということは、つまり従来の社会主義体制というものが成り立たないということをみずから認めたということにほかならないわけでございます。
今回の会議の中で、明と暗があったと言われておりますけれども、明の方はもちろんヨーロッパの中で統合が進み、ユーロまで行っているということでございますが、暗の方は、同じ八五年にゴルバチョフのペレストロイカで始まったロシアの改革がソ連になり、ソ連が崩壊してエリツィン大統領のもとで改革を進めているわけですが、まだいろいろと困難な状況にあるということで、ヨーロッパの暗のうちの一つだということになっております。
私は、ソ連の体制崩壊というのは、ゴルバチョフさんはペレストロイカで頑張りましたけれども、ソ連の体制崩壊はやはりグラスノスチ、情報開示ですね。情報開示がやはりソ連体制のそういった形の崩壊に通じ、東西の壁を打ち破ったのだと思っています。 私は、今度の、首相の諮問機関である地方制度調査会、二十五次になるのでしょうか。自治大臣はきょうばいらっしゃらないのですな。じゃ、これはやめます。
ロシアの問題を考える場合に、ロシアのペレストロイカその他、その後の状況というもの、内政というのは果たしてどうなっているんだろうかと。それがまさに基盤であり、六月には大統領選が行われて、改革路線を推進しているエリツィン大統領が果たして再選されるんだろうかとか、いろいろ問題があるわけです。軍産複合体等ありますが、これの軍民転換というような問題についても非常に困難を極めている。
ペレストロイカの進展の中で、ポポフ・モスクワ市長は米ソ大学構想の実現を推進いたしました。これは、当時共産党の支配下では不動産の私的所有は禁止されていたという事情を踏まえまして、米国の資金を利用して大学を設立して、ソ連側の個人が合法的に不動産を自由に利用できることをねらって進めた構想だと言われております。
ああいう国になりたい、ああいう機構の中に入りたい、こういう形でベトナムはドイモイという格好のベトナム版ペレストロイカを始めまして、どんどん変わってきました。その結果、ベトナムの経済は上がってきました。
こういうペレストロイカともいうべき自由化政策を抜本的にとっていかなければ、今の高校教育の荒廃というのは救えないと私は確信をしているところであります。それがこの本の内容なんですね。 今長く申し上げましたけれども、私のこの公立高校教育ペレストロイカ論について文部大臣いかが感想をお持ちになったか、お聞かせいただきたいと思います。
そこで、私はこの前も内閣委員会でも申し上げましたけれども、ちょうど防衛庁長官はモザンビークにちゃんとすぐ真っ先に行っておられまして、政務次官以下局長さん方といろいろ協議したわけでございますけれども、あの朝鮮動乱につきましてもNHKスペシャルがソ連の時代のペレストロイカだけでなくグラスノスチということを通じて朝鮮戦争、朝鮮動乱の背後、フルシチョフその他金日成、その他の動きというものが明確にNHKスペシャル